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青梅市の歴史
青梅地方は、多摩川および荒川水系の豊かな水に恵まれ、生活に適した地理的条件が整っており、早くから狩猟生活を中心とした集落が発達していました。河川の流域からは、旧石器時代・縄文時代の遺跡が数多く発見され、当時から既に多くの人が住んでいたことがわかっています。
弥生時代になると、霞川流域では稲作が行われ、東京でも最大規模の集落が形成されるようになりました。人々は農耕型の生活に移行しながら、奈良・平安時代を経て、集落がさらに拡大し続けました。
平安朝には、武蔵国府造営のための用材供給地としても集落が形成され、鎌倉時代のころから、土豪の三田氏が豊富な林産資源を背景に勢力をのばし、多摩川上流域を支配するようになりました。三田氏は、天寧寺・塩船観音寺・住吉神社・武蔵御嶽神社などの神社仏閣の創建再興に力を注ぐとともに、市場を設置するなど経済基盤の充実にも努め、永禄年間(1558年〜1569年)に、北条氏照に滅ぼされるまで、約300年に渡り、青梅地方に独自の文化を築き上げました。
北条氏が天正18年(1590年)に滅びると、徳川氏が関東に入国しました。やがて江戸開府を迎えると、青梅の大半は幕府の直轄地となりました。江戸の経済・文化の発展に伴って、青梅では、石灰・木材・織物などの産業が活況を極め、青梅地方一帯はさらに発展しました。多摩川の水運や、青梅街道の整備により、「江戸市場に最も近い産地」という優位性が発揮されたわけです。
このように発展した青梅を中心とした40ヶ村の村々は、明治22年(1889年)の市制町村制によって1町6ヶ村に統合され、明治27年(1894年)には立川・青梅間に鉄道が開通しました。そして、昭和26年(1951年)に青梅町・霞村・調布村が合併して「青梅市」が誕生しました。さらに、昭和30年(1955年)には、隣接する吉野・三田・小曾木・成木の4ヶ村が編入され、現在の市域となりました。現在は、まちの基幹産業だった織物業や林業は構造不況によって衰退し、往時をしのぶことはできませんが、工業団地造成による企業誘致や、観光資源の活用による新たなまちづくりが進められています。そして、西多摩の中核都市「青梅」の役割とその将来性は、圏央道青梅インターチェンジの開通により、にわかに高まりつつあります。


